社名Bisan Secessionは天命に違いないとの思い込み
おのみちホッとコンサートには、会規約というものはない。この会は、もともと「クラシック音楽を楽しむ会」という、いとも単純なネーミングをした任意団体が母体となっていた。その「楽しむ会」発会当初のメンバーは、音楽的素養の全くないズブの素人である吾輩と友人2名の3名で構成された会だった。そして1993年11月、初めて主催したコンサートが「ウィーン王室室内弦楽オーケストラ」という一大事業で、今から考えると大胆極まりない行動をする組織でもあった。
こういった説明をすると、「楽しむ会」は崇高な目的を抱きながら会を結成して、準備万端宜しく事を進める団体かと思われたかも知れないと考えるのは、吾輩だけか。
現実はご想像の通り、出たとこ勝負の「初めにコンサートあり」で、主催するのに一人でやるには荷が重く、一人の主催者では社会的に信用がおけない。信用されるには団体でなければなぁと考えた。団体は人によると三名以上だと聞き、それではと仲良し恋しで、友人に声をかけ、にわか「クラシック音楽を楽しむ会」を結成したと云う、いつ空中分解してもよいほどのひ弱な組織であったのが真相である。
実は、この「楽しむ会」の発起人である吾輩は、前年に株式会社ビサン ゼセッション(Bisan Secession Co., Ltd.)という会社を立ち上げていた。社名となっている19世紀末の芸術運動「分離派(Secession)」と初めて主催したコンサートの演奏者たちが「ウィーン」という一つの都市で偶然に結ばれていたという単純な理由で、これは天命に違いないとの思い込みで、身の丈を超えた一大コンサートを開催したに過ぎないのだ。
こういった説明をすると、「楽しむ会」は崇高な目的を抱きながら会を結成して、準備万端宜しく事を進める団体かと思われたかも知れないと考えるのは、吾輩だけか。
現実はご想像の通り、出たとこ勝負の「初めにコンサートあり」で、主催するのに一人でやるには荷が重く、一人の主催者では社会的に信用がおけない。信用されるには団体でなければなぁと考えた。団体は人によると三名以上だと聞き、それではと仲良し恋しで、友人に声をかけ、にわか「クラシック音楽を楽しむ会」を結成したと云う、いつ空中分解してもよいほどのひ弱な組織であったのが真相である。
実は、この「楽しむ会」の発起人である吾輩は、前年に株式会社ビサン ゼセッション(Bisan Secession Co., Ltd.)という会社を立ち上げていた。社名となっている19世紀末の芸術運動「分離派(Secession)」と初めて主催したコンサートの演奏者たちが「ウィーン」という一つの都市で偶然に結ばれていたという単純な理由で、これは天命に違いないとの思い込みで、身の丈を超えた一大コンサートを開催したに過ぎないのだ。
不幸な赤字が思わぬ自信、さらに人との出会い
この第1回目のコンサートが不幸にも赤字が30万円で納まってしまった。それを聞くと、「へぇ、幸運にも30万円の赤字で納まった!」のではないかと思われる御仁もおられるだろう。実は、その「不幸にも」には深い意味がある。
30万円の赤字で済んだことが変な自信となった。その翌年1994年7月、またまた知り合いから「ウィーン・アイヒェンドルフ五重奏団」のコンサートを持ちかけられ、気を良くして主催を快諾した。出演メンバーは若くて美しいピアニストのインゲボルグ・バルダスティーとウィーン・フィル、ウィーン・フォルクスオーバに所属する管楽器奏者たちであった。
柳の下には2匹目のドジョウはいなかった。演奏者のレベルは高くても、尾道には、今も当時も気軽にクラシック音楽を楽しむ観客は多くはいない。大きな赤字を出してしまった。2回のコンサートで累積赤字100万円だ。ここでへこたっては男が廃る。とは云うものの、不思議なことに、困った時にはさまざまな手が差し伸べられるものである。
同じ年、エゴン・シーレがポスターに描いたSECESSIONの文字をくり抜いた鉄板のPR看板が縁となり、ハプスブルグ家の末裔と交遊関係にあったという精神科医の松本順正医師と知り合い、大阪堺市在住のフォルテピアノ修復家・山本宣夫氏を紹介いただいた。山本氏はウィーンにある国立美術史博物館の古楽器部門でフォルテピアノの修復を手掛ける人で、彼のアドバイスと協力で、海外の費用のかかる演奏家を招聘するのではなく、日本国内の優秀な演奏家たち中心の演奏会を行うこととなった。以降、ギャラが比較的安く、音楽的レベルの高い本格的な音楽家たちを紹介してくださった。
30万円の赤字で済んだことが変な自信となった。その翌年1994年7月、またまた知り合いから「ウィーン・アイヒェンドルフ五重奏団」のコンサートを持ちかけられ、気を良くして主催を快諾した。出演メンバーは若くて美しいピアニストのインゲボルグ・バルダスティーとウィーン・フィル、ウィーン・フォルクスオーバに所属する管楽器奏者たちであった。
柳の下には2匹目のドジョウはいなかった。演奏者のレベルは高くても、尾道には、今も当時も気軽にクラシック音楽を楽しむ観客は多くはいない。大きな赤字を出してしまった。2回のコンサートで累積赤字100万円だ。ここでへこたっては男が廃る。とは云うものの、不思議なことに、困った時にはさまざまな手が差し伸べられるものである。
同じ年、エゴン・シーレがポスターに描いたSECESSIONの文字をくり抜いた鉄板のPR看板が縁となり、ハプスブルグ家の末裔と交遊関係にあったという精神科医の松本順正医師と知り合い、大阪堺市在住のフォルテピアノ修復家・山本宣夫氏を紹介いただいた。山本氏はウィーンにある国立美術史博物館の古楽器部門でフォルテピアノの修復を手掛ける人で、彼のアドバイスと協力で、海外の費用のかかる演奏家を招聘するのではなく、日本国内の優秀な演奏家たち中心の演奏会を行うこととなった。以降、ギャラが比較的安く、音楽的レベルの高い本格的な音楽家たちを紹介してくださった。
NPO法人おのみちアート・コミュニケーションの誕生
ギャラが高ければ、音楽的レベルが優れているのか、と云えばそうでもない。商業主義に影響され、需要が高ければ(=テレビなどのマスメデェアで知名度があれば)ギャラもおのずと高くなるのである。そんなことが漠然と分ってきて、悪戦苦闘の活動を続けている内に、尾道市内の優良企業である丸善製薬株式会社から支援の申し出があり、その資金的援助は2000年から2007年春まで続いた。会長の日暮兵士郎、社長の日暮彰文両氏二代にわたる有り難いご支援だった。
大きな債務を抱えながら、尾道で数多くの音楽会や各種企画を続けたことが結果的に功を奏し、組織を結成以降何とか14年もの長きにわたる活動ができた。「クラシック音楽を楽しむ会」は「おのみちホッとコンサート」に改名し、コンサートを続けることになる。やがて、「おのみちホッとコンサート」は黒字に転換し、1993年11月から2007年10月までに主催や企画を行ったコンサートやイベントは50回を数えた。
2007年12月、「おのみちホッとコンサート」は総勢15名の役員構成による新組織NPO(特定非営利活動)法人おのみちアート・コミュニケーションとなり、さらなるステップで進んでいった。そのNPO法人が認定される直前の、記憶に残る前夜祭的イベントが『おのみちアート・コミュニケーション in 東京』だった。
大きな債務を抱えながら、尾道で数多くの音楽会や各種企画を続けたことが結果的に功を奏し、組織を結成以降何とか14年もの長きにわたる活動ができた。「クラシック音楽を楽しむ会」は「おのみちホッとコンサート」に改名し、コンサートを続けることになる。やがて、「おのみちホッとコンサート」は黒字に転換し、1993年11月から2007年10月までに主催や企画を行ったコンサートやイベントは50回を数えた。
2007年12月、「おのみちホッとコンサート」は総勢15名の役員構成による新組織NPO(特定非営利活動)法人おのみちアート・コミュニケーションとなり、さらなるステップで進んでいった。そのNPO法人が認定される直前の、記憶に残る前夜祭的イベントが『おのみちアート・コミュニケーション in 東京』だった。